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Ⅱ-(ⅰ)要約筆記の原則

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Ⅱ筆記技術

Ⅱ-(ⅰ)要約筆記の原則

要約筆記の基本要件

ここからは、具体的な要約筆記技術について。
要約筆記の基本として、「速く、正しく、読みやすく」という三原則が知られている。語呂も良く、本質を突いた標語であるが、言葉通り解釈すると行き詰まる部分も出てくる。もう少し具体的に、要約筆記における基本要件を表すならばどうなるか。ここに6つの要素を挙げる。
  ①間違いがない
  ②読んで意味がわかる
  ③無駄がない
  ④大きな抜けがない
  ⑤即時性
  ⑥客観性

①間違いがない
筆記した内容に、原文(原話)との不整合(矛盾)がないということ。一般要約筆記においての最重要項目である。

②読んで意味がわかる
書かれた要約筆記文のみを見て、その内容がわかるということ。要約筆記の前提とも言える要件である。
読んで意味がわからなければ、その部分の筆記の意義は希薄。当然、文字が読み取れる、日本語として意味が通じるという要素もここに含まれる。
 
③無駄がない
時間の無駄、労力の無駄がないということ。
これらの無駄がないのであれば、たとえ話の内容が書ききれていなくても、現段階では仕方がないと言っていい。それ以上の求めに対しては、要約筆記のスタイルそのものを見直す必要が出てくる。逆に、要旨が抜けずに書いてあったとしても、何らかの無駄があるならば、そこには改善の余地があるということになる。

④大きな抜けがない
 一見うまく書いてあるが、ところどころ大きく抜けた筆記というものは実際よく見られる。内容等を判断した上で抜かしたのであればそれも一法だが、相当書き遅れた上で、きりのいいところから再び書き出すというパターンはいけない。
 内容の脱落を善処とする場合というのも、あくまでも他の処理を適切にした上での話。筆記の無駄、時間の無駄がある中で、内容を落とすというのは認容されない。当然に抜かして良い内容というものは基本的には無い。

⑤即時性
 情報はタイムリーに伝えられなければならない。これは、要約筆記の最大のテーマにして最大の難問と言える。
 その本質的な論議は抜きに、現場レベルでのタイムラグについて言うならば、内容が抜けない範囲でのタイムラグは容認すべきだろう。ただし、指示語表現、注意喚起、行動への合図など、ラグ‐ゼロが求められるシチュエーションにおいては、筆記の即時性は必須である。また、要約筆記利用の目的が議論・討論にあるような場合など、高い即時性が求められるシチュエーションは少なくない。如何にそれを実現するかは今なおもっての懸案である。

⑥客観性
 原話の解釈、その処理等、要約筆記作業の各段階において、要約筆記者は己の主観を交えないように努めなければならない。全ての判断の主体は筆記者であり、その意味では“客観”という基準自体が個々人の主観の影響を受けるとも言えるわけだが、少なくとも銘銘のスタンスとして、客観的な見地に立とうとする精神が必要である。

以上、6つの要素について概説した。ここでの記述はすべて、一般的な要約筆記を想定している。それぞれの要素の必須度、優先度はシチュエーション等によって変わってくるが、一貫して最も重要となる要素は、①“間違いがない”という原則である。
“間違いがない”とはどういうことか。少し補足する。

“間違いがない”とは

まず、“間違いがない”という原則を、要約筆記の3原則の“正しく”と区別してもらいたい。“間違いがない”ことと“正しい”こととは違う。そして結論から言うと、要約筆記において“正しく”書くということは不可能である。これは“正しい”という日本語の解釈にもよるが、かなり緩めの定義をしたところで結論は変わらない。仮に一字一句、発声音に忠実に書いたところで、だから正しく伝えているとは言えないだろう。文字の限界がそこにある。
やや極論に過ぎるかもしれない。しかし要約筆記者は、文字で表現しきれない部分について充分に認識すべきである。要約筆記における限界を認容するとしても、その限界の先にあるものを自覚することが大切である。したがって、“正しく”という表現をここでは薦めない。要約筆記の3原則の1つ“正しく”とは、それを追求する姿勢として解釈するのが良い。
一転、“間違いがない”ということは重要である。絶対条件と言ってもいい。“書けない”・“書ききれない”ということは、ある程度は仕方がない面もあるが、“間違い”は別である。これを、仕方ないという言葉で片付けてはいけない。間違いの種類、程度によってこの判断は変わるものの、間違ったことを書くくらいなら書かないほうがいいと言ってもいいだろう。
 なぜ間違ってはいけないのか。間違わない方がいいに決まっているなどという答は差し置き、少し考えてみてほしい。ここで問題となる間違いとは、話の内容に関わる間違いである。漢字の間違いなどは、実はそんなに問題ではない。主題を示す補語の間違い、その説明部たる述語の間違い。中でも、物事の結論にあたるような文脈での間違いが問題となる。言うなれば、「○○は△△だ」「○○がある/ない」といった文脈で結論を間違えるということである。そりゃあダメに決まっていると思うかもしれないが、現場でちょくちょく目にすることである。
実際問題として、筆記の中のひとつの間違いが大問題になるケースは少ないだろう。しかし、いつもどこかに間違いがあり、そしてそれが、いつどこにあったのかがわからないという事態は憂慮すべきだ。どこに間違いがあるかわからない以上、どこを信じていいかわからない。それは結局、他の部分の筆記、ひいては他の派遣での筆記の信頼性をも下げることになる。信頼性が下がった情報の価値は低い。信頼できる情報であれば、その量が少なくてもそれなりの利用価値はあるが、どこが信用できるかわからない情報の利用価値は、その内容が重要なものであるほど寡少になる。上で、間違ったことを書くくらいなら書かないほうがいいと言った意味はここにある。一度の不出来な筆記が、要約筆記そのものの信頼性を下げかねないのである。要約筆記者一人一人が、“間違い”というものに、もっと神経質にならなくてはならない。

“間違い”のない筆記のために

では如何に“間違い”を作らないか。残さないか。これは急務の課題である。
 もっと注意深く聞くとか、サポートの人数を増やすとか、そのようなことをここで論ずるつもりはない。もちろん、間違わないように気を付ける姿勢は大切であるが、精神論に終始していては本質を見失う。どんなに注意深くしていたつもりでも、間違いは生ずる。必要なのは、間違った内容を書いた場合でも、確実にそれに気付き、訂正できる具体的なシステムを確立することである。
同時に、以下を強調する。確信が持てない時、よく聞き取れなかった時、そのような場合に、何となく流れをつないで書いてしまわないということ。それ以前に、自分が書いたものを把握すること。聞いたものと書いたものとの連関を認識できること。結果として、誤記・誤訳があることは、仕方がない。要約筆記者の責任の外でそれが起きてしまう時もある。しかし、なぜ間違ってしまったかわからないままに間違って書いてしまうのは、時に、書けないことよりもわけが悪いということを知ってほしい。
 自分の筆記を自分で把握する。これは、書いたものを後で全て覚えているという意味ではない。意識を持って書く。つまり、書いている時に、自分のしていることが自分でわかっているかどうかということである。自分が何をしているのか、どうしてこの処理をしたのか、いちいち説明できる必要はないが、何となくでも把握できていることが大切である。
 では、自信が持てない時はどうするか。チームでフォローできる場合もあるだろうが、それとは別に、「この部分はちょっと怪しい」という時の表記方法、処理方法の検討が必要となるだろう。繰り返しになるが、自信が持てない時があるのは当然であり、仕方がない。ここで、決して怪しいものを安易に混ぜてしまわないことが、情報の信頼性のためには大切になる。怪しいものは、怪しいものとして提示する。わからなかったものは、わからなかったものとして表示する。それが実際は間違いじゃなかったとしても、それは構わない。
 理想的とは言えないものの、その選択がベストという時は少なくないだろう。


Last Update 2011-05-07 (土) 14:29:14

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